東覚寺について

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 白龍山・寿命院を号する東覚寺は、真言宗豊山派に属し、奈良県の豊山長谷寺を本山としています。
室町時代中期、延徳3年(1491)に真言宗御室派の僧、源雅和尚が不動明王を勧請して本尊とし、
神田寺町筋違の地(現在の万世橋付近)に建立したのが、始まりと言われています。
その後、根岸の御隠殿(寛永寺第7世門主公遵法親王の隠居所であったところ)を経て、
安土桃山時代後期、慶長年間(1596~1615)の初期に武州豊嶋郡田畑村(現在地)に移りました。
当時は、仁和寺門跡末の取締役寺をつとめた與楽寺につらなり、20を数えた末寺の中では筆頭に位置しました。
そのため寺領は7石と比較的大きく、養福寺・寿徳寺・福蔵寺・普門寺という4つの末寺もありました。
江戸時代には徳川歴代将軍の祈願所として栄え、寺紋に“葵の紋”を賜り、幕府が編纂した『新編武蔵風土記稿』には、
本尊不動明王は弘法大師の作、九品仏堂には恵心作の、阿弥陀三尊が安置されている、と記されています。
また、『江戸名所図会』(上図)には当山の伽藍が描かれ、当時の境内や周辺の様子をよく伝えています。
ただし残念なことに、昭和20年4月13日の戦災により不動明王を除いて、諸堂などほぼ全てを焼失しました。
現在の本堂は、昭和42年に再建されたものです。

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札所案内

  • 御府内八十八ヶ所霊場第66番札所(弘法大師)
  • 九品佛順礼霊場第2番(阿弥陀如来)
  • 両国三十三観音霊場第29番松尾寺本尊馬頭観音うつし
  • 滝野川寺院巡り第2番

御府内八十八ヶ所霊場 
第66番札所

東京遍路として知られる御府内八十八ヶ所霊場は、
四国八十八ヶ所霊場のうつしとして宝暦年間(1751~1764)の初期に、
信州(長野県)浅間山真楽寺の憲浄僧正と、下総国(千葉県)松戸宿の諦信によって開創されました。
四国八十八ヶ所の450里を府内45里に縮め、四国霊場の土をそれぞれ府内霊場の拝前に配し、
遠い四国まで行けない者にも、代わりにこれら霊場を巡拝すれば、四国を巡拝したものと同様の、
御利益があるようにと設けられました。当山は、その第66番目の札所です。
慶応元年(1865)の序文をもつ『御府内八十八ヶ所道しるべ』には、当山が別当寺をつとめた、
田端八幡神社の参道門前に鎮座する仁王像と、その前を行き交う人々の姿が描かれています。

  • 雀供養之塚

    本堂前の植込みに竹の形をした石碑があります。これは、文化14年(1817)8月に長坂という人が、小鳥の水飲み場として建立したもので、側面には蜀山人の次のような狂歌が刻まれています。

     むらすずめさわくち声ももゝこえも、
    つる乃はやしの鶴乃ひとこえ

    “つる乃はやし”とは寺院を指すことから、雀の供養塔と言われています。また一方で、“鶴乃ひとこえ”とは徳川将軍の命令を意味し、幕府の言語統制を嫌った蜀山人が、雀にこと寄せて幕命を皮肉ったものと、解する説もあります。
    御府内八十八ヶ所霊場として栄えた当山には、こうした文人墨客も訪れていたようです。

    雀供養之塚
  • 畜霊観音

     眼を半眼に開き、蓮華座の上に半跏趺坐し、左手には蓮華の花を持っています。
    蓮華の花は、煩悩に汚されない清らかさを示し、観音菩薩の象徴とされています。
    光背と台座には、本像建立の経緯を象徴するように、十二支をはじめ猫や蛙、蝶など、総数50に及ぶ生物が描かれています。犬や猫などのペットの供養塔は、全国の寺院でみることができますが、当山にあるような観音菩薩は他に例をみないものです。
    当山は戦災で、本尊以外の仏像はほぼ全てを焼失していますが、畜霊観音は彩色修復のために、彩色師に預けられていたことで難を逃れました。平成23年7月には再度の彩色修復を終え、写真のような色鮮やかな御姿となりました。

    畜霊観音